2011年10月30日日曜日

文学フリマに出す紙面の声明文を変更しました。これが、差し替えたモノです。

 DVの普及や映像投稿サイトの拡張などにより、「撮る」事も「見せる」事も容易化した今日。「撮る」事は、日常的な所作の一つとなった。その環境の中で私たちは、どの様に映画を開始し、それをどこへ向けていくべきなのか。
 誰から頼まれた訳でもなく映画を作り、友人でも知人でもない「誰か」に「見せる」事。そこには、不安と恐怖がある。それらから逃れる事は簡単だ。友人知人の了解の範囲内で映画を作り、彼らにのみ提示すればいいのだから。
 しかしそれは、見ない事の選択でしかない。見えない「誰か」を意識し、恐怖や不安と向き合う事で、「撮る」事は発見へと変質する。生活を支える「ここ」がよそとして見出され、「私」が意識していなかった私と出会う。
不可視の「他者」に「見せる」事を前提にした「撮る/見る」行為は、発見を誘発するのみならず、新しい了解の為の「場」を構成していく事に他ならない。
本誌が、見えない「他者」を意識化し、自身の言語を翻訳し直す、映画とは異なる仮設的な「場」となればと考えている。
東京造形大学 諏訪ゼミナール 伊東弘剛

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