2011年3月2日水曜日

ゼミレポート 木舩理紗子


ゼミについてのレポートを書くという事ですが、どうしても4年間の事を振り返ってしまいます。入学してすぐ、自己紹介をクラスの皆の前でしましたね。あれを諏訪先生はビデオに撮ってらっしゃいましたが、どこにいったのでしょう。
そのとき、自己紹介で皆が好きだと言っている映画を私は知らなくて、なんで私は映画専攻にいるのだろうと思いました。なんとなく来てしまった負い目を感じ、そしてそれは今もあります。(あるCMプランナーさんに憧れて、なんとなく映画専攻にきました。)
卒制を編集中に、ある人に見せたとき「あなたはこの先も映画撮る気があるの?」と言われて「辞める気はないです。」と答えると「そうだと思わなかった。映画で考えているフリをしている様にみえたから。」と言われました。
そう言われると、「そうなのかも」と思います。その時は「そんなつもりは無いですよ。」とは答えましたが、やっぱりまだ良く分かりません。

私がゼミで興味を持った事は、映画にまつわる事であったかもしれませんが、そこに映画がなければその話が出来なかったのか?と考えると分かりません。
私が映画にまつわる人達の言葉や姿に興味を持つ時、そこに映画はあるのだろうか、と思います。
ゼミの中で、私は映画で考え(フリもあっただろう)たり、何も考えなかったり、そんな事を断続的にしていました。
特に教室内が沈黙するとき、私は皆が考えているのか、何も考えていないのか、分からないなぁと思う事がありました。
そして自分の事も、今何を考えているのか、もしくは何も考えていないのか…?…と。
この沈黙の時に訪れるものは、宇宙のように感じました。
その宇宙の中で発言をすると、それに何か返ってくる。という事は気休めかもしれませんが頼もしく感じました。そういう風にその場にいました。
あるとき、私が「何が分からないか分からない」というような議論になりようも無い発言をしていたら、諏訪先生が「それが、木舩さんが考える時なんだよ、考えなきゃ。」という様な事をおっしゃりました。
実はまだ、どの様に考えていけば良いのか分かりませんが、そうかぁと思いました。

「なんか分からない、何について考えたら良いのか分からない」と思いつつ発言するに至る雰囲気があり、そこからなにか抽出してくれる友人がいて、そこでまだ何かしら先がある事をほのめかして下さる先生がいました。
その恵まれた環境の中、最終的には自分一人で決めなくてはならない、と背中を押された様に思います。
それはとても大きな事でした。
色々な意見があって、その人(作家)それぞれの接し方や言い方がある事を知りましたし、その差が大きくとも小さくとも、あまり関係ない様に思いました。
差が大きくとも話は出来ますし、差が小さくとも譲れないとこはあるなぁと感じました。
だからこそ自分で決めていくしかないのですね。
こんな当たり前の事が大学入学時に分かっていなかったのは、私だけかもしれません。
私はこれからひとり、映画に出会えたらと思っています。
卒業にあたりやっとそう思えました。

木舩理紗子(^^

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