2011年2月15日火曜日

諏訪ゼミナールを振り返って 古澤淳

書く事が無い。自分の言葉で書けることが無い。とレポートをかく段階になって気づいたのでそれについて書きます。

振り返ってみると、いつだってゼミの論議がうまく滑りだした事はなかった。多くの場合そのような時は、ある時は、ある種の世代論になり。ある時は、「自分の場合」と、自身の作品や撮影方法、体験と結びつける形で各自が語りだしたり、まったく関係の無い個人の生理的な感覚から端を発する形で議論が進んでいったこともあった。ごく初期には、そういった場合になるにつけ、(この映画から話そうよ)と感じていた自分がいた。しかし、結局後期に近づくほど、いやかなり早い段階からそういった所から発生する議論のほうが自分にとってもおもしろく、建設的だった気がする。いや、単純にそういう皆の話を聞くのが凄く好きになっていった。自分は、自らの言葉に、あまり自分が映りこんではいない事が一つのスタンスであり、このゼミでの役割だとはじめは勝手におもっていたのだけれども、だんだんと発言の声が小さくなっていったように感じている。まあそんな「小さな話」事はどうでもいいので後で書く事にする。

大文字で語られるべき問題意識にそってではなく、個人からの見方がなぜ面白いと感じたのか、またそこにいかがわしさを感じ無かったのか。それは皆が作品と、あるいは作品を通じて語られている世界と自分なりに「関係」しようとすることで言葉を探していたからかもしれない。例えば撮影において、撮り手が対象と結ぶ関係とは、対象との友好関係うんぬんのことではない。時には対象を搾取的に扱いながらも、搾取的にというより、撮り手が、どうしようもなく対象を愛していたり、あるいは怒りを感じていたりと、要するにエネルギーを貰っているであろう作品に私達はいかがわしさを感じない。観客として語る言葉も同じではないだろうか。今、時代的に語るべきとされている問題意識に、あるいは映画の美学的な視点にあてこんで選択された問題ではなく、作品からを見てうけたの反応を、関係可能な問題として提出することは、結果的に多種多様な作品を作品から作り出す。(勿論、自身の視点には限界がある。それを跳躍したところからの言葉、なにがしの知識体系、からの言葉も無論同時に重要ではあると思う。が、自分はそこまで行けなかった。)
時には、映画の上映とトークショーにおもむき、作家と飲み交わすことさえ通じて、議論は重ねられる。作家さえ、作品について饒舌に語ることはなく、できてしまった「作品」を前にして、僕らと曖昧な議論を重ねた。そしてそれは刺激的だった。

という事で自分の話になる。

さきほど、「だんだんと自分の言葉が小さくなっていった」理由だが、結局それらの言葉は批評界隈から借りてきた物にすぎず、あまつさえ、そのふるった言葉の裏側にうすっぺらな自分を張りつけてるようにも思えたからだ。(今じゃそこまでは思ってないが)ペドロの時などは、会場に来てくれた人達ほど、自分自身が思いをこめた質問をペドロにできるだろうかという疑念にかられ、半ば自分に失望もしていた。

映画をめぐる議論において、何ひとつとして、決定される何かが無いのは知っていた。境界線をさぐる事自体が意味が無いのはわかっていた。いや、それを放り出す事が一番意味が無いこともわかっていた。”フィクションかドキュメンタリー”でなく、その間にある、”か”について、煩悶し、問いつづけることに意味があるとのっけからわかっていた。しかしそれはわかった気分だった。本当に自分はそうしていただろうか?本当に問い続けるとはどういう事なのだろうか?クエスチョンのままでは意味が無いのにそこで止まっていた。この事に対して、撮る人間、ショットを繋ぐことに悩んでいる人間を間近に見たり、映画をみたり、現代美術界隈の友人達の話を聞いて、あるいは自分の個人的な失敗を通じて、なんとなく答えがでてきた。そもそも、そういった問題は、実際皆わかっているわけで、しかし「自分」をそこにもってくる。私の映画はフィクションだと言いきる、(例えば佐藤真さんは、それを"フィクションに留まる矜持"と言っていた)あるいはドキュメンタリーだと言い切る。それは他者との差異化を求めているわけでは無く、「覚悟」なのだろうと感じた。あるいは田村君の言った、「気概」だろうか。この一年、いろんな気概を見た。自分から企画を立てる事、友人を映画に使う事、そしてそのシーンを切ること、こんな映画わからん。と言い切ること。スタッフに今日の交通費出ません。と言い切ること。そして撮影でカット!と言うこと。その「覚悟」を底にしいた自分の行動がある事で、問題を疑問として加速させる。

「ああ、ああいった覚悟を乗り越えて、よけいに自分で手に負えなくなっているような言葉達に対しては、こちらも覚悟をもった言葉が無いとダメなんだな別にダメじゃないんだろうけど、引け目を感じる理由だろうな、」と。気概が無かった。まさか諏訪ゼミのレポートがこんなにも纏まらなく、あれほど避けていた「自分の話」に留まる内容になるとは思わなかった。とにかく気概を持って今後、世界と関わっていこう。それだけだと思う。

一方的な感情ではあるかもしれませんが、ここでの時間を非常に愛していました。おいおい、窓ぐらい無いのかという密閉されたゼミ室。それに答えるかのような一回きりのカフェでのゼミ、愛知トリエンナーレでの道中の会話や飲み屋でのちょっとした意見の食い違い、ポレポレ、ユーロ、フィルメックスで映画を見終えた後の議論など、生きてたと思える時間でした。映画はある時期、僕にとって人生のアリバイのような失礼な接し方をしていましたが、あの時間は違いました。気概をもって感謝します。ありがとう。

2011年2月14日月曜日

映画専攻4年への連絡 追加講評会

業務連絡:明日15日(火)10:30より4-E教室にて、卒業研究の追加講評会を行います。講評を受けられなかった学生、完成の遅れた学生は必ず参加してください。

2011年2月13日日曜日

狩野嵩大 諏訪ゼミレポート

諏訪ゼミナールにおいて、最も重要な時間は対話の時間であった。

それぞれがどのような議題を抱え、何を話したいか。そうした中で生まれたテーマが「生活と制作」であったと思う。

 諏訪ゼミナールにはゼミ展というものが無い。それは結果的に非常に良かった。展示に向けるべきエネルギ−が純粋に対話の内容に向かったからである。そうした純粋さは結果的にペドロコスタ監督、黒沢清監督の特別講義をひらくという方向に向かった。この二つの特別講義は、何故開かれたのか。それもやはり純粋に聞きたいことがあったからである。ゼミ生同士の間に生まれる対話によって、個々が抱える疑問はより研ぎすまされ、明確になると同時に大きく膨らんで行くことになったのだ。

 私がこの一年間、様々な人との対話を通して強く心に残ったのは、誰も映画の話をしていない。ということだ。いや、映画の話をしていないというのは語弊があるかもしれない。「映画とは」「ドキュメンタリーとは」という話はなかったということである。それと同時に「こうあるべき」「そうでなくてはならない」というものもなかった。そのせいか、映画の話をしなければならない、ということもまた、無かったのである。統一された価値観が無く、全員が団結して目指す目的なども無いということは、自由である一方、危険でもあった。そんな状況での特別講義では、ゼミ生(少なくとも私は)はペドロコスタ監督や黒沢清監督に対して心酔して、好きだから話をしたいと思ったわけではない。そこには常に「疑う」という気持ちがつきまとっていた。例えば、ペドロコスタ監督特別講座の終わったあと、締めの挨拶で諏訪教授が言った台詞が印象的だ。「人には一生携えていく言葉というものがある。そうした言葉を今日聞けた人もいるのではないだろうか」こういった内容の挨拶であった。携えるとは何だろうか。私自身、ペドロコスタ氏の言葉をいくつも覚えている。そしてその言葉を何度も反芻し、問うているのだ。それは疑うことでもあり、自分との「対話」でもある。

もちろん、諏訪敦彦教授の言うことも何の疑念も無く聞いていたわけでは無い。諏訪ゼミナールではそこで生まれる疑念を、解消できるチャンスが与えられていた。それも「対話」なのだ。

 

さて、この一年間つきまとっていたテーマ「生活と制作」についても、私は様々な疑念を抱き、対話を重ねた。といっても、「生活と制作」というテーマは非常に広大なテーマだ。少なくとも私の大学生活においては、生活、そして制作、それら二つが全てと言っても過言では無い程なのだ。しかし、ゼミ生の中では「生活と制作」というテーマはしっくりときた。それ以外無いのではないかという程にしっくりきていたのだ。私はそのしっくりくる感覚に全ては凝縮され、またそこから拡散していくのだとも思う。

ゼミ生のするバイト先の話もふとした話も社会問題についても、全ては私たちの生活と制作に関わっている。この一年間で交わした対話は、私たちの生活の中で拡散し、制作によって収束する、またはその逆もありうる。

 諏訪ゼミナールで生じた対話はそのように私の中で息づき、しっかりと根を張った。

 最後に、この一年間諏訪ゼミナールに関わってくれたゼミ生、ペドロコスタ氏、黒沢清氏、そして諏訪教授に感謝の気持ちを伝えたいと思う。しかし、そんな感謝の気持ちもこの場に書き表すことは難しいだろう。ここに書くべき感謝の気持ちは私の今後の人生の中で、生活と制作の中で伝えなければならないとも思う。

2011年2月9日水曜日

諏訪ゼミナールレポート 相田麻実

遅くなってしまいましたが、みなさん特別講義お疲れ様でした。


黒沢清監督の特別講義で「人間とは一貫性が無いものだ」と黒沢さんがおっしゃったと記憶していますが、そのことがなぜか私の中でとても印象に残りました。当たり前と言えば当たり前の事のような気もしますが、目から鱗というか、とても勇気づけられました。
物語の中では人間は一貫性があるように描かれることが多いと思うし、一貫性を持たせる為に作り手は一生懸命実在しない人物について思いを巡らせることもあると思います。私は映画の中の「人間」について興味があまりありません。それは黒沢さんの言う「人間に興味がない」というものと一緒ではないかもしれませんが。。
人間について興味が無いのに、映画を作ろうと思うと必然的に人間を出さなくてはいけなくて、私にとって人間を描くということはとても悩ましいことでした。しかし、この「人間とは一貫性が無いものだ」という発言により、私は人間を描くのに興味が無いのではなく、人間に無理やり一貫性を持たせる、という行為に興味がないんだと知ることができました。こういった事は一人で考えていても辿り着かなかったと思うし、今回の特別講義のおかげだと思います。
話し手のフルサワ君お疲れ様でした!楽しかったです。ありがとうございました!


私は前期も後期も、たまに出席しては何も発言せず帰るということが多かったと思います。みなさんが映画について話し合いをしているのを聞いて、私が知っていたはずの映画がどんどん遠くなっていくように感じたこともありました。この経験は私にとってとてもショックな経験であり、自分は今まで「映画」について何を感じ、何を面白いと思ってきたのか混乱してしまいました。
しかしその混乱は私が知りながらも避けていたことだったと思います。あまりゼミに参加しなかったにも関わらず、諏訪ゼミでのことがいつも頭の片隅にあり、嫌な言い方をすれば目の上のたんこぶのような存在でもありました。しかし嫌でも向き合わなくてはいけなかったことだと思います。
このゼミでの出来事を糧に、映画以外のとこについても改めて向き合い、考えていけたらと思います。

まともにゼミに参加していなかったのに、たまに出席した際に授業の進み具合や状況を説明してくだっさった方々、本当にありがとうございました!諏訪先生もありがとうございました。
では失礼します。

2011年2月1日火曜日

深田隆之 諏訪ゼミのレポート

私は、諏訪ゼミでドキュメンタリーを中心に映画というものを考える中で、映画を作るスタンスについて考察する機会を与えられたように思います。

ゼミではドキュメンタリーを中心に様々な作品を鑑賞し、作品について、また映画を制作するということについて議論を重ねました。そこで徐々に気になっていった主題が、映画の制作者が自分の作品とどういった関係性を取り結んでいくかということでした。例えば、土本典昭さんは膨大な時間を費やして水俣病とその周辺の人々と関係性を結び、その関係性から映ったなにかを作品として世に呼びかけているように思いました。ペドロコスタは、映っているものに何も望まず、カメラが受け皿となって、映っているもの・ことを掬い上げているように見えました。名前を挙げた二人の監督のスタンスは、おそらく全く異なるものだと思います。また、フィクションとドキュメンタリーという、いわゆるカテゴリーとしても二人は異なる土俵に立っています。ただ、私にはそのようなカテゴライズや映し方に関係なく、個人的な感覚・感情が見えるという点で共通しているように見えました。(それをなくすということはどの作品でも無理なのですが)そこでは、カテゴリーという括りは見えず、映っているものと、カメラの後ろに立っている監督の「影」のようなものが映り込んでいるように見えました。その「影」は、作家性とは全く異質のもののように思います。

しかし、映画を撮っている私はそこで立ち止まってしまいました。4年間いわゆるフィクションの映画を撮り続ける自分にとって画面に映るものと関係を結ぶということはどういうことなのか。例えば自分自身の身の回りのことを映し映画と関係していくのか、例えば役者というものと対話しながら、役者としてではないそこに映る人間と関係していくのか…。常に考えていたようで明言できないこの問題を改めて突きつけられた気持ちでした。卒業制作を制作していたということもあり、その考察と脚本を行き来していました。

そのタイミングで行われたのが黒沢清監督の特別講義でした。黒沢監督の、「人間についてはわからない」「映画というものには人間以外のものも映っている。それらすべてが映画なんだ」「役者だけでなく、様々なスタッフの仕事が映画を作っている。その仕事がないとスタッフは失業してしまう」といった言葉が印象的でした。私は、この講義に対し、考察したというよりは反射的な感想として、それも映画なんだ、それでいいんだ、というどうしようもない感想を抱きながら話しを聞いていました。


自分が映そうとしたもの、見ようとしたものとの間には、嫌でも関係性が生まれる。それが空間であっても、役者であっても、画面に切り取られた自分や自分と身近な人であっても、それがなにかは重要ではないと感じます。自分が見つめるものと真正面から対峙するということにおいて、映るモチーフはなにか、形式はどんなものなのかは関係ないのかもしれません。ペドロも、アピチャッポンも、黒沢さんも土本さんも、彼らが見つめた「なにか」との関係性から形式が生まれたのだと思います。

そう考えると、以前、「ヴァンダの部屋」についてのインタビューで言っていた、なぜ画にその色合いが出せるのかという質問に対するペドロの回答がほんの少し理解できます。

「自然にそういう色になっていったんだよ」

ほんの少しだけです。あくまでも。



どっちつかずなはっきりしない感想です…。