2011年1月30日日曜日

勝河泰知 ゼミナールレポート

私はドキュメンタリーという表現は、作者とそのカメラに映る対象との関係性がより顕著に明確に画面に映ってしまうものなのだと感じました。それは作者の世間や人に対する一つのものの見方でもあるし、カメラに映っている対象とどのような態度で接しているのか、どんな信頼関係を築いているのかという姿勢のあれわれでもあります。本当にしろ嘘にしろ「ドキュメンタリー=真実」というレッテルが貼られていることを理解し、理解したうえで立ち向かわなければならない。そこには誤魔化したら誤魔化したなりのものしか映らないし、嘘をつくならば徹底的に嘘をつく。真摯に対応するならそれだけ真摯なものが帰ってくる。そのことが否応なしに観客に問われる、厳しいステージなのではないかと思います。それだけに、作者の生活、態度、人間性がカメラの前に暴かれてしまうことが多い。作品を通して作者や世界を考察し議論するのには最適の素材だったのではないかと思います。ここで言っていることは表現のすべてに通じることなのかもしれませんが、「これは真実だ」という前提から観客が見てしまう作品の例というのはあまりないのではないかと思います。とにかく、私の場合は諏訪ゼミナールを通して、以前よりもカメラに映る対象と自分がどんな信頼関係を築こうとしているのか、築いていくことが可能なのかということを深く考えるようになりました。考えた上で行動に移していくことで、以前よりももっと多様な世界をカメラの前におさめることができるということを学んだように思います。

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