2011年1月30日日曜日

勝河泰知 ゼミナールレポート

私はドキュメンタリーという表現は、作者とそのカメラに映る対象との関係性がより顕著に明確に画面に映ってしまうものなのだと感じました。それは作者の世間や人に対する一つのものの見方でもあるし、カメラに映っている対象とどのような態度で接しているのか、どんな信頼関係を築いているのかという姿勢のあれわれでもあります。本当にしろ嘘にしろ「ドキュメンタリー=真実」というレッテルが貼られていることを理解し、理解したうえで立ち向かわなければならない。そこには誤魔化したら誤魔化したなりのものしか映らないし、嘘をつくならば徹底的に嘘をつく。真摯に対応するならそれだけ真摯なものが帰ってくる。そのことが否応なしに観客に問われる、厳しいステージなのではないかと思います。それだけに、作者の生活、態度、人間性がカメラの前に暴かれてしまうことが多い。作品を通して作者や世界を考察し議論するのには最適の素材だったのではないかと思います。ここで言っていることは表現のすべてに通じることなのかもしれませんが、「これは真実だ」という前提から観客が見てしまう作品の例というのはあまりないのではないかと思います。とにかく、私の場合は諏訪ゼミナールを通して、以前よりもカメラに映る対象と自分がどんな信頼関係を築こうとしているのか、築いていくことが可能なのかということを深く考えるようになりました。考えた上で行動に移していくことで、以前よりももっと多様な世界をカメラの前におさめることができるということを学んだように思います。

諏訪ゼミナールレポート 隈井麗子

未だにブログの使い勝手がよく分からず、変な使い方になってしまっていたらすみません。

このブログのコメント数などからも分かるように、私は正直このゼミにあまり積極的に参加することができませんでした。
教室で議論をしている時も、「みんななんだか難しいことを考えているのね」というような感じで、こんなことを書いたら四年間何をやってきたんだと怒られてしまいそうですが、私は映画的に〜、だとか、〜の構造が、とか、そういったものにほとほと嫌気がさしてしまっていたように思います。
今だから書くことができますが、そうした議論に順応できない自分と皆との差異に悩んだ時期もありました。あるいは、それは今も続いているのかもしれません。
ただ、皆の議論を聞いていて私自身が何の興味も感じず、考えなかったかというと決してそういうわけではなく、時たま言いようのないモヤモヤを感じてしまう時もあって、そんな時、拙い言葉をたぐり寄せてやっと吐き出すと、皆予想外にその一言をひろってくれるのにドキドキしていました。
ある日一本の映画作品を見て議論した後(もちろん私は終始ぽかんとしていた)電車の中でゼミの友人と話をしていて、思わず私が「私は馬鹿だから、全然意味わからなかった!眠たくって、何が映画的ですごいのかとか、わかんなくて、腹たつ!」というようなことをこぼしてしまったことがありました。
友人はごく真剣な顔つきで、全く嫌味なく「隈井さんはそれでいいと思うよ」と返してくれました。
分からない自分に自己嫌悪を感じる必要がないということは分かっていたし、それからの私の「映画的な」ことに対する見解が大きく変わったわけではありませんが、授業とは離れたいつかどこかの電車の中でのこのやりとりが、私にとってのこのゼミの存在を一番象徴していたように思います。

これから受講する学生のために少し付け足すと、当初、私は諏訪ゼミ=ドキュメンタリーという認識を持って履修しましたが、今思えばドキュメンタリーだけに限った内容ではなかったように思います。
それよりは、今まで自分たちが当たり前にカテゴライズしていた『ドキュメンタリー』『フィクション』という言葉の概念を改めて疑ったり、『映画』というものの在り方に対して様々な角度から考える機会と言った方がいいような気がします。
個人的には、諏訪先生の社員時代の幻の企業VPや金沢のこども映画教室の記録を観ることができたのが素直に面白かったです。
特に教育としての『映画』はまだまだ議論されていない分野ですし、(というよりそもそも映画を教育にぶち込むという考えに今まで及ばなかった)実際にリアルタイムで映画教育を受けている立場だからこそ考え得る、提案できることが沢山あると思います。


なんだかレポートというよりは私的な感想文のようなものになってしまい、すみません。
やっぱり小難しい文章を書くのは柄じゃない、というか苦手ですが、一年間こんな私を仲間に入れてくれた諏訪先生とゼミの皆さんに心から感謝しています。
あまり関係ありませんが今月15日の追加講評会で私の卒業制作を発表できると思います。
よろしければ皆さん是非いらしてください。
あと、田村くんも言っていましたが、飲みたいですね。では。

2011年1月22日土曜日

諏訪ゼミナールレポート

「眼差しを折り返して飛ばして」
              田村 基

諏訪ゼミナールでは前期、後期に亘り「ドキュメンタリー」をキーワードに全体で研究しました。作品研究、ゲストを交えたシンポジウムの企画、特にそこに居合わせる人との対話を中心としながら「ドキュメンタリー」という言葉を展開しました。この対話は「ドキュメンタリー」をより深い考察と斬新的な発想へと導いたように私は思います。具体的にはドキュメンタリーがフィクションに対立する概念、歴史的背景、映像表現の方法論に依存しないかたちで、個人が抱える問題、感情を中心に私と「他者」に映画を介在させたシンプルかつ根源的な関係を新しくしたからです。映画を発端として個人の価値観で考えを述べ、対話することで結果的に「他者」を知ることが、翻って映画の多様性を豊かにし、個人の価値の多様性を強固にするというのは行き過ぎた幸福な話ですが、実際そのことが可能になっていたのではないでしょうか。ペドロ・コスタ先生のおっしゃるとおりドキュメンタリーとフィクションの違いは明確ではありません。しかし「ドキュメンタリー」に付随するリアリティーと現実と世界と人間と生活と~と~と~という言葉や概念によって映画を「かっこづけ」せずに対話し、より新しい方法で映画を世界接続し、拡張し、翻って世界を豊かにする可能性を、という呼ぶより、気概を打ち出したのではないのでしょうか。
この気概こそがドキュメンタリーだと私は名づけたい。


という話はまぁあれとして、今後も折を見てみんなで映画を見たり、話したり、お酒をのめたらなんでもいいです。おつかれさま!また会いましょう!

2011年1月19日水曜日

黒沢清特別講座(ゼミ終了)

黒沢清特別講座の様子。ゼミのみなさん、準備片付けお疲れさまでした。古澤君、司会進行お疲れさまでした。黒沢さんに助けられましたが、なかなか健闘しましたね。これで1年間のゼミは修了です。ZOKEI展終了後、ブログに1年間のゼミを踏まえて各自の感想や気づいたことなどのレポートをアップしてください。(アップされない場合、成績がつけられません)よろしく。

2011年1月17日月曜日

黒沢さんからの返信

黒沢清監督に古沢君の文章を送りました。黒沢監督から「正直「人間」の話は苦手で、「映画」の話なら何とかなると思いますが、そのあたりはどうかお手柔らかに。」とのことです。

2011年1月15日土曜日

1月14日のゼミ

特別講座に向けての会議と、ポスター張りでした。

決定した事は、役割分担と当日の流れです。特に当日の流れは前回の仮決定とは多少変更があります。

当日は、二部構成で行うことになりました。第一部はゼミで送らせていただいた、「手紙」に対する返答ないし意見を黒沢清監督からいただき、ゼミ生との質疑応答(基本的には司会が担当しますが、ゼミ生全体で向き合います)に繋がります。

休憩を挟んだ第二部では、内外の参加者と監督との対話形式の講義となります。講義自体の方向性は前半部を経る事で参加者みなさんが共有してくれると思うので、ここでは特に舵取りの意味合いというよりは加速させたり、揺らしたりするような質問をゼミ生が投げかけられると面白いと思います。

で、ちょっとまだあるので、各自の質問をブラッシュアップする意味でも、コメントに残したりすると面白いと思います。

ゼミ生集合(CS-LAB)  13:00
黒沢監督到着 16:30
開場 16:45
開始 17:00

2011年1月6日木曜日

1月7日

あけましておめでとうございます。

突然ですが、1月7日に大学で、特別講座に関する会議をしようと思います。
もちろんみなさん果てしなく忙しいと思いますので、出席者は限られてしまうとおもいますが、出席できないゼミ生も、ブログ等を通した意見をお願いしたいです。

特別講座に向けた話を固める事はもちろん、各自が直面している制作の問題に対して何か還元があるような話し合いになればおもしろいと思います。